ども!寺澤ですー。二連ちゃんですが、雪でせき止められてますので、最近みた演劇のはなしでも。
しあわせな日々、という戯曲があります。
サミュエルベケットさんという、このひとは、えっとー。あ、アイルランド出身のフランスの劇作家さんらしいです。アイルランド出身だったんだ、、、
このひとの戯曲で唯名なのは、ゴドーを待ちながら、とかですかね、名前だけでも知ってる人いらっしゃいますでしょうか、、、
最近わりかし、というかそもそもこの人自体すごい劇作家のひとなので、がんがん作品が上演されているんですが、日本でも最近多いように思います。
で、今回は、かもめマシーンという、劇作家の萩原雄太さんと、俳優の清水穂奈美さんによるかもめマシーンというユニットのしあわせな日々という作品の上演に足を運んで来ました。
去年の今頃にも上演されたもので、そっちに行けなくて、悔しかったので満を持しての観劇でした。
この二枚の写真は去年の公演のものなのですが、舞台セットはあらかた同じものが使われておりました。
作品のことを話すと長くなるのですが、ざっと。
丘に埋まった女性のウィニーとその夫と思われる男性ウィリーが主な登場人物。1幕で幕が開けた段階で、ウィニーは腰半分まで、丘に埋まっており上半身しか動けない状態でとにかく喋り続けます。まるで喋って居ないと気が狂ってしまうかのように。それに時折反応したり、反応しなかったりするウィリー。1幕の終わりでは、ウィリーは外へ出て行ってしまいます。
そして2幕。ウィニーのからだは首まで丘に埋まってしまって居ます。ウィリーの返事も当然なく、ただひたすらと喋り続けるウィニー。目を閉じようとすると強引にもベルで目覚めさせられる。そんな状況のなか、ウィリーが破けた正装で帰ってきて、丘を登り、ウィニーの顔に手を当て、幕が閉じます。
まあ、これだけだとなんのこっちゃー、という感じで。高校生のときにもしあわせな日々を見たのですがとんとわからなくて、退屈でムッとして席を立ったのを覚えています。
しかしかもめマシーンのしあわせな日々は、なんというか、ものすごくて。
演劇って、想像力だなんだいいますけど、ほんとその、ぎりぎりのところっていうか。イメージがわかないぎりぎりの物体、みたいなレベルでずっと上演が続いて。
つまり、意味がわかるとかわからないとか、感情がわかるとかわからないとか、そういうのをぶち抜いて、つよく、伝わってくるものがある、と、そういったかんじでした。
それは日常、わたしたちが言葉ではわかり得ないものであり、なので伝わってくる、というよりも、そこに人がいて、言葉を発している人がいて、それに感電し、ビリビリ感じる、と言ったほうが正しいやもしれません。
演劇って言葉を使うから言葉で理解できるもの、だとなんとなく思われてるのかもですけど、もちろんそれはあるんですけど、じゃあ、ほんとに言葉だけなら、文学でよくて。そこに生身の人間が存在するし、言葉を発している、ことで生まれる、言葉ではすくいきれないもの、わかりえないものまで、表現することができるから演劇なのだと改めて思いました。
最後に。
ふっと演劇をみてて、思い出したことについて。
わたしの祖父はわたしが小学校二年の時に脳梗塞で倒れそれ以降認知症の症状が悪化して行きました。
暴れたり、徘徊したり。
そのつど、祖母は祖父に付き添っていました。
それから四年経って、亡くなる間際。意識がはっきりしてる時でも誰が誰なのかわからないような状態になった祖父。病院から祖母が帰ろうときた時に、ふしぎと、さみしいなぁ。お母さん。いつもありがとう。と、そう言ったといいます。
わたしはウィニーにウィリーが最後に触れ、笑いあって幕が閉じた瞬間に、それをふっと思い出して、
きっと祖父と祖母の間にあったのはしあわせな日々だったのかもしれない。と、そう思ったのでした。
全ての人が、そのようにしあわせな日々を送れるわけではないにしても、それがしあわせな日々であってほしいと強く願うのでした。