こんにちは!!社員のテラザワです。
私がていたらくしているうちに文さんが怒涛に更新しているではないか!!!!
と焦っての投稿となります。
今回はGWに行ったところの話第二弾目ということで、お前はいつの話をしとんのじゃい、と言われそうですが、しかし書くのであります、、、、
さてさてどこまでお話ししたかと言いますと、、、、
そうそう、いわき駅の近くの居酒屋で呑んだくれて帰りのバスの中で眠りこけて、、、、
はっと気づくと池袋。
そこから夜行バスに乗って
向かったのは岩手県、陸前高田市であります。
学生時代夜行バスを乗り回していたおかげで夜行バスマスターになっていた私はここでも爆睡。
気づいたらそこは、陸前高田市役所の仮庁舎前。
ほほほ、とバスを乗り継ぎ、鈴木旅館にて朝風呂を浴びまして、、、、
その後、高田でいつもお世話になっている長沼正宏さんと合流しまして、各所巡りスタート。
さて、話をさらに前に遡ります。
私が初めて陸前高田を訪れたのは、2017年8月。去年の夏のことでした。
みちのくアート巡礼キャンプ、というアート合宿で東北を巡っていたのですが、陸前高田は、そのツアーのなかで最後に訪れた場所でした。
岩手県の内陸の方からマイクロバスでぶうん、と走っていると、突如として目の前に現れた、古墳、のようなもののことは忘れもしません。
ここは、震災があり、そして、津波があって、それで、町が、波に飲まれた、そんなところです。
私が、古墳みたいだと、そうおもったそれは、復興工事でかさ上げされた、その、盛り土だったのです。
盛り土の下にはかつて、町がありました。
そこが波にのまれて
それごと全部、埋葬してるみたいだな、なんて、ふと思ったのを覚えています。
バスは進み、災害公営住宅までやってきました。
ここももう、盛り土されたその、上に立っている災害公営住宅です。
その屋上に登りました。
そこからは、復興工事の様子が一望できました。
きっと、海が見えたのだろうその手前には大きな大きな壁みたいな防潮堤、そしていくつもの重機が土を運び、土を鳴らし、道を作っては、道を壊し。その、復興工事の途中の状態で、なんどもなんども動かされてきた、土、は、もう、土、ではないような顔をして、じっと静かに黙っているのでした。
重機の音だけが響きます。
その光景を見たあと、ゆっくりと階段を降りていく最中、私は、なぜだか、自分がバラバラになりそうな気がして、それを、ぐっと止めるように、両手でおでこを強く、強く押さえていたのを覚えています。
その風景は、私を瓦解させようとしてきたのです。
わたしがわたしでなくなるその手前で、じっと風景がこちらを見てきます。
その風景が、忘れられなくて、この地でリサーチを進めることになったのです。
市役所の人にお話しを聞きに行ったり、現地の人に、お話を聞く機会を作っていただいたり。
その中で焦点を、愛宕山。に絞っていきました。
その山は、あの、動かされていた土、が元あった山、川向こうの気仙町に鎮座していた標高137メートルの山でした。
目の前にあった、気仙中学校は「愛宕の山の、裾近く、、」と始まるものでした。
その愛宕山の頂上にあった愛宕神社を代々お守りしてきた一人が、長沼さんでした。
長沼さんは本当にたくさんのところへ連れて行ってくださり、そして多くのことを話してくれました。
中には話しづらいこともあったのでしょうが、いつでも真摯に向き合ってくださいました。
愛宕山は、それ自体が高台造成のために元の3分の1の高さにまで削られ、そこで出てきた土や岩盤は、「希望の架け橋」という名前のつけられたベルトコンべアによって川向かいの高田町まで運ばれ、かさ上げ工事に使われたのです。
愛宕山はかたい花崗岩できていました。
そのため、削る際にはダイナマイトが使用され、爆破の時には人工地震も起きていたとか。
それを見て冒涜だ、と感じる人もいたと言います。
運ばれた土によって高田町は地面の下に。
それによって、様々な風景が、埋まっていきました。
なかなかどうもその現実を受け入れられずにいたのですが、
前回の訪問の時に、愛宕山の削られた地面の上に、長沼さんの家た新しく建てるための地鎮祭にお邪魔した時に、何かがすっと腑に落ちるものがありました。
削られた山のその地面に、それでも人は、住んで、暮らしていくのだ。
それはもとの体のきっと、膝上くらいのところに。
そうして、愛宕山と、その地に住む人間に、新しく、何かつながりが生まれやしないか。
そんな風に、少しだけ、希望、のようなものを思ったのです。
さて、今回は愛宕山のすぐ近くにある月山神社の元宮司さんにお話をお伺いしました。
こちらが月山神社。写真を撮る長沼さんでございます。
この形、何かに見覚えある方いますかね?
そう、伊勢神宮の社の屋根と同じ形をしているのです。
木材も、遷宮の時に解体されたものを使っているとか、、、、
長沼さんいわくご利益があるみたいです、、、、
さて、この月山神社の元宮司さんの元へ伺い、早速お話を聞くことに。
たくさんの意見がある中で、この元宮司さんは、愛宕山は削られてはならない山だったとおっしゃる方でした。
その訳をお聞きしに行ったのです。
もともと、気仙町というのは、今泉村、という村でした。
その所以なのでは、と言われている、お寺が泉増寺、と言います。
このお寺には、今白水(こんぱくすい)という30年に一度、濁るという水が湧く井戸があります。
この今白水、を縦に並べると、今泉、という文字になるため、今泉村の所以になったのではないかと言われているのです・
その今白水の湧く泉増寺、と、その手前にある、天満宮、そして、愛宕山の頂上に存在した愛宕山は、もともと一直線上に並んでいたのではないか、ということをおっしゃっておりました。
そしてそれは、この今泉という土地の発祥の原点なのだと。
だからこそ、もう一度この町を立て直す際には、この三つが重要なのであり、それゆえ、愛宕山は削られrべきではなかったと。
実は、愛宕山の神社は取り壊されたあと、再建の時に使うようにと、贈呈された、おやしろがあるのですが、それをどこに再建するかはまだ決まってないのですね。
しかしこの話を辿ると、元の愛宕山のあった場所に再建しないと意味がない。
そして実は、裏道の林道を行くと、元あった愛宕山の頂上よりすこし低いくらいの平らな場所があるのです。
愛宕山の位置を考えると、ここに、建つのがいいんじゃろうけど、それにはたくさん難しいことがあるようです。
そのほかにも、震災の話から地域づくりの話、奇跡の一本松のはなしまで多種多様な話を聞かせていただきました。
奇跡の一本松は、震災があり、津波があり、他の松が流されて、それでも建ち続けていた松のことです。
その松がなぜ津波に流されなかったというと、それが自生の松だったからと言います。
移植の松の根っこは横に広がって行くらしいのですが、自生の松の根が下に、下に伸びて行く。
それゆえ、津波では流されなかったけど、海水をしたから吸い上げて、そうして、枯れて行ったと言います。
今ではサイボーグ一本松と呼ばれているとか。
近くで見ると、その意味が、よくわかります。
元宮司さんのお話は、本当に多くの人に届けたい話ばかりでした。
どこかであったら、まだまだあるので、話、聞いてください笑
その後やぶ屋さんにてお昼ゴハン。親子丼がとろとろでおいしかった、、、、蕎麦湯もしみました、、、、、
その後も黒崎温泉に連れてってもらったり、途中大工さんにお会いしたりしながら、夕方に、長沼さんとはお別れをし、そして私はこれから超絶な夜を過ごすのでした、、、、
それについてはまた次回、、、、、
引っ張りますよ、、、、
最近は梅雨入りして、なんというか低気圧がすごいですねー、、、
弱い人もいるんじゃないかしら、、、中には絶好調の人も、、、、いるのかな、、、
夏が待ち遠しいです。
ということでお別れに、
梅雨をエスケープして走り出したくなっちゃうそんな曲をお送りしてお別れしましょう。
ceroで「Orphans」
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アデュー!!!